

明治の廃仏毀釈の時代風潮と相俟って政府の「上地令」により、天龍寺は寺領の返還を余儀なくされました。保津川河畔、小倉山の麓は公爵・男爵等に払い下げられ、現「嵐亭」は川崎男爵、現「宝厳院(中山別邸)」は大隈侯爵現「らんざん厚生年金基金保養所」は西園寺公爵が買い上げることとなりました。
川崎男爵は、此処に別荘を造るに当たり、「お座敷から保津川が見えるようにすること及び川からの湿気を防ぐこと」を目的として土台に大岩を据え付けました。建物には(長押に四間半の長尺物がはめこまれている等)造船用の資材がふんだんに使用され、屋根は丸みを帯びた「吊天井式」であることから、百年以上経過した現在でも、障子等の開閉は四季を通じて自在であります。また、表廊下には欄干が配されるなど「御殿造」に仕上げられております。床の間は半間幅×二間半長あり、お座敷を鄭重なものとしておりますが、その他、障子の桟が角取り切り込み入りであること、ガラスは明治時代の手引き製法で作られたものであること、坂戸の引き手・釘隠が川崎家の家紋入り七宝であることなど、細部にわたり現在の建具には見られない貴重で豪華な設えが施されております。
鹿児島生まれの川崎男爵は、後述致しますように薩摩の人脈を生かして政財界に幅広く交際を広げ、昭憲皇太后(明治天皇の皇后)を始め、第二代総理大臣松方正義公、犬養毅(木堂)公などを此処に招き宴を催しました。この時松方公は、お座敷からの眺めの美しさに感激し、自ら筆を取り『延命閣』と揮毫し「此の眺めは長命の源である」と評しました。以来此の建物は、延命閣と名付けられ、その書は今でもお座敷の欄間に掛けられております。

